どのような原発肯定論も、未来世代に放射性廃棄物を押し付けることには 目をつぶっている。どのような原発肯定論もその果実のうまさ、必要性、不可避性を語るが、誰も、どこも、そのリスクを引き受けようとは言わない。
その果実ゆえに、ひとえにリスクを負うことになる世代がある。負わせられていく地域がある。
いま、私たちに求められているのは、他者と未来世代への想像力、共感する力ではないだろうか。
● 同じ百姓として心が痛む
東北の地に住む"百姓"として、こんなに重い気持ちで種を播く春は、経験したことがない。
東京電力福島第一原子力発電所の事故は広い範囲で甚大な被害をもたらしている。
自然を基盤とする農民や漁民の痛手は計り知れず、汚染はこの先何年続くか見当もつかない。
遠い過去からはるかな未来にいたるまで世代を越えたいのちのよりどころ、土。幾十代、幾百代の願いが重ねられ、タスキが今に託されてきた地域。それらが一挙に汚染され、タスキが途切れ、その地から去らなければならない現実。同じ農民として心が痛む。
東電とその原発を容認してきた国が、被災したすべての野菜、家畜、魚を速やかに買い取るべきだ。その上での補償であって、どのような意味でもこれ以上生産者に負担を負わせてはならない。
地方に建設された原発は、地方の貧しさに付け入った政治の醜い姿をあらわしている。その上での今回の放射能被害。地方は息の根が止められる事態に追い込まれている。
● 地方は都会の家来ではない
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菅野 芳秀 氏 |
先ごろ「朝まで生テレビ」で、東京都の副知事は「原発を都心からもっと遠くにもって行く必要があった。それが失敗だ。」と話していた。
まったく反省していない。彼だけでなく、原発が必要だという人たちに共通しているのはその果実だけを求め、生まれるリスクを遠く離れた地方に押し付けようとすることだ。
今もなお必要というならば、自分の暮らしの場に原発を誘致するよう働きかけるべきだ。
さらに放射線の汚染水も小分けしてそれぞれの地元や企業、家庭で引き受けるべきだろう。そのように働きかけとセットにして原発必要論を語るならば認めよう。果実とリスクを併せ呑むよう足元を説得してみればいい。それ以外のどのような必要論も詭弁である。地方を利用しようとするな。地方は都会に奉仕する家来ではない。沖縄県民の気持ちが本当によくわかる。
● 地域コミュニティをつくる計画を
同じような都会中心の考え方は、菅政権の復興計画にも出てきている。
東北地方を新たな「食糧供給基地」と位置づけ、津波被害を受けた各地の農地を集約して大規模化を進めるよう国会に提出するという。
あくまでも都会に供給する地方という位置づけだ。いま、何よりも大切なのはそこに住んでいた方々の立ち上がりではないのか。以前あった地域コミュニティを活かす計画をつくらないと、住んでいる人が立ち上がっていかれないというのが、これまでの災害の教訓である。
「食料供給基地」の前に現地の方々の意見を充分に聞きながら、それらを活かす復興計画こそが必要なのではないのか。生産基地より生存、生活だ。地方は都会の植民地ではない。
● 地方も都会も自立する
都会の家来でなく、植民地でもなく、エネルギーから食料まで、小さくてもしっかり地域に根を下ろした自給圏の形成をめざす。農業を基礎にした脱原発、脱成長の循環型社会をめざすこと。その余剰を他の地域にまわす。地方も都会もなく、この点では一様に自立しようとする。日本の社会をこのように構成しなおすことが求められている。
「3・11」以後、少なくとも意識レベルでは生き方、暮らし方を変えようと考える人たちも多くなっていると聞く。
不幸な中にも希望はある。この機を逃すことなく、エネルギー政策も食糧政策も新しく組み替えることが大事ではないかと思う。 |